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地理上の位置

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静安区は管内の古刹 ·静安寺から名づけられた。当区の境である呉淞江故道の北は、南宋の嘉定十年1217までは昆山県に所属していたが、その後は嘉定県、宝山県に所属することになった。呉淞江故道の南は、元の至元二十八年1291は華亭県に所属するが、その後及び明、清の時代は上海県に所属することになった。虬江は上海県と宝山県の境となる河であるが、民国初は道路を作るため埋め立てられた。清の同治二年1863、当区の中南部は米国の租界とされ、その後は共同租界として合併された。光緒二十五年(1899年)、当区南部の大部分は共同租界の西区に付属することになった。租界の拡張を拒むため、清の光緒二十六年1900、閘北の紳商は閘北工程総局を建て、自ら商埠を開いた。1914年、仏国の租界が拡張し、当区内の長浜路(延安中路)、徐家路(華山路)以南の全地区を仏の租界として付属させた。そのため、当区の南部は仏の租界と共同租界で、北部は主に華界だった。19277月、上海特市政府は17の市?郷を引継ぎ,翌年7月、古い市?郷を全部区と改称し、閘北市を閘北区と呼ぶことになった。20世紀30年代、日本軍が二回の淞沪戦争(第二次上海事)を引き起こし、閘北区はほとんど廃墟になり、上海市において名高いスラムと化した。1937年、上海が占拠された時期、日偽政府は閘北区を閘北政務署、沪北区公署と改称した。共同租界は太平洋戦争前におき、「孤島」となった。1945年抗日戦争が勝利した後、当区の各部はそれぞれ第十区、十一区、十二区、十四区、十五区に付属することになった。1947第十四区を閘北区、第十五区を北駅区と呼ぶようになった。1949530日、市軍管会は静安区を引継ぎ、一度区名を静安寺区と変えたことはあるが、1950628日、静安区に戻した。解放初期、当区の各部はそれぞれ静安、新城、江寧、閘北、北駅区に所属していた。1956年、上海市区整のため、静安区が廃止され、富民路、常德路を境に、東のほうは新城区に、西のほうは長寧区に併入され、閘北、北駅の両区は閘北区として合併された。19601月、再びの区画調整で、新成区、江寧区は廃止され、新成区成都北路以西の部分、江寧区の全体、長寧区鎮寧路以東の部分は合併され、静安区として再建された。201511月、上海市委、市政府は「国務院が上海市一部行政区画の調整を同意する承認書」を発表し、閘北区?静安区を廃止し、新しい静安区を設立した。20163月、元静安区と閘北区の「吸収」作業は完成され、新たな静安区が成立し、ようやく今日の区画となった。

 

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