時計を修理している師匠の呉臘宝は70余年「一分一秒」に熱中
原稿発送の期日:2017-09-30 訪問回数:

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記者 余儒文 撮影

(記者 黄競競)

一つのテーブルスタンド、一つの机と様々な小型工具で、87歳の呉臘宝師匠はレーペをかけて、俯いて、左手で時計の芯をもって、右手でピンセットを捏ね、注意深く取り外している。呉師匠は他人が手詰まる腕時計を修理することができて、再びそれらの時計に運転させる。70余年は一日のように、呉師匠はずっと時間を「修復して」、腕時計と一生の縁を結んでいる。

眉の細さと同じのような部品に対する修理

初めて呉師匠に会った時、彼は元気で、耳が遠くないで、目がはっきりと見える。一部の部品をピンセットのみで挟んでも、呉師匠の手も全然振れないで、手法が精確且つ平穏なので、他人は彼がすでに87歳だという事実が信じられない。

「この腕時計に143個の部品があります。」呉師匠はお客さんがメンテナンスで預かったロンジンを持って、「強い記憶力ではなく、この種の腕時計を少なくとも数百回修理したことがあります。」

若頃の辛抱強い努力からの「奇妙」15歳の頃、嘉興で他人の徒弟になった。19歳、上海南京路での時計屋に来て自分の腕を磨ぎ続けた。仕事が終わった後、呉師匠は休憩中で、一つ一つの腕時計の部品を取り外して、そのままですべて組み立て、十年間頻繁に繰り返す?、時計の構造、運転原理を次第に了解した。

1958年、全国初めの腕時計工場――上海腕時計工場が誕生した。呉臘宝師匠は工人から副組長、組長に、それから車間の副主任に昇進した。見事な腕があるので、呉師匠は上海市ないし全国での技術試合で数多くの賞を受けて、「全ての賞を貼る時に一面の壁が足りない」という程度に達して、時計業で有名な師匠になる。上海腕時計工場から前もって退職してから、昆明、貴陽、重慶などの腕時計工場からの招聘を受けて、エンジンを担任していたことがある。

時計のメンテナンスはまるでバイパス手術のように精確さに対する要求が非常に高いと呉師匠は記者に言った。例えば、「脱進機の放置」、腕時計における脱進機はガンギ車とアンクルからなって、正確な速度で時計を駆使して時間を指示している。歯車の軸の尖りは常に眉の細かさとほぼ同じで、もし不注意なので壊し、また市場に取り換えた部品がなかったら、手で修復しなければいけない。

「今、このような精密な部品が壊れたら、店はリスクを回避するために修理しなくて、直ちに替えます。この技術を習得した人が少なくなります。」呉師匠は心配そうに話した。

北京のお客さんは名を慕ってここに来て時計を修理

曹家渡街道コミュニティ生活サービスセンターで、三平方メートルぐらいの空間は呉師匠が住民にサービスを提供している「根拠地」――時計修理工房である。

「呉師匠の腕がうまく、修理費用も安く、周りの人によく知っています。」腕時計を修理しに来た劉さんは三つの時計がここでなおされたと記者に言った。数年前に楊浦区に引っ越したが、腕時計が壊れたら、ここに来て呉師匠に修理を頼む。

ここで時計を修理しに来る人の大部分は周りの人で、川沙、九亭、青浦などのところから来るお客さんも多くいる。2009年、北京の董さんが持ってきたスイスミドー腕時計は呉師匠に強い印象を与え、「その腕時計のメンテナンスは今まで一番難しいですよ。」

その腕時計は董さんが30年前に買って、北京のいくつかの有名な時計屋で修理されたことがあり、周歴、日付等の部品が取り外されても、運転したりしなかったりした。董さんは北京ミドー専門店にも行って、時計がスイスで修理されて、費用が3000元を超えると告知された。仕方がなく、時計は十余年で運転しなかった。2009年、董さんは子供を見舞うために上海浦東に来て、偶然に呉師匠が時計を修理する優れた腕を持っているということを知って、ここに来て修理してみた。

「元々はアンクルとベアリングだけが壊れましたが、数回の修理のせいで、壊れつつありました。」腕時計の型が非常に古いので、呉師匠はあちこちに行って、漸く全ての取り替え部品を見つけ、他人が勝手に取り外れた部品と取付が違った部品を一つずつ回復し、一カ月もかかった。呉師匠に修理された腕時計に一秒の差もなく、300元の修理費用も専門店の十分の一だけであった。

記者は取材中で呉師匠が一部のなおされた腕時計の蓋の内側にメンテナンスの時間を書くということを発見した。「印を付けて、蓋の内側を見れば、ここに修理された時計が分かります。」ギャランティータイムで再び修理しに来れば、無料です。」一番忙しい時、自分が一日30個の時計を修理したことがあると呉師匠は言った。15歳から時計を接触してから、呉師匠に取り扱われた腕時計は割引しても数万ある。

職人が指先の苦労で生活

時計業の変遷は呉師匠に感慨無量の思い出しを抱かせる。前世紀60年代、腕時計は結婚する時に「三種の神器」の一つで、時計を買う券の入手は非常に難しかったと言える。7080年代で、腕時計は普及しつつあり、時計業の商売も盛んでいた。90年代から、時計業はショックを受け、多くの時計屋は転職し、現在、呉師匠のような経験が豊富である師匠は珍しい。

「私と同じ年代の師匠はもう少なくなります。」時間の流れに伴って、腕時計のテクノロジーが進歩しつつあり、メンテナンスの難しさも増加している。職人として、指先の苦労で暮らして、「どんな複雑な時計でも、原理が変わらないので、大切なのは忍耐力と注意深さを持っているということです。」

呉師匠に喜ばせているのは、自分が上海時計工場で勤務した時、多くの徒弟を採り、彼らにたくさんの技術を教えた。現在、徒弟らは上海でいくつかの有名な時計屋の大黒柱になり、「私は中国の時計業に一部の人材を育成し、自分の力を貢献したと言えますよね。」

呉師匠からみると、腕時計は時間を測る工具、身分のシンボルのみならず、時間を大切にし、光陰を惜しむということのシンボルでもあり、「実際、全ての腕時計は芸術品ですよ。」

年寄りの呉師匠は時計のチクタク鳴る音を聞きながら、依然として喜んでお客さんの「時間」を修復している。呉師匠はドライバーを使えない日まで、残った時間でずっと時計と付き合っているように希望する。