彼は共産党員のすべきことを全て完成

原稿発送の期日:2017-10-05

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1920年、フランスのモンタルジでの粗末な中学校の寮で、ある凛々しい少年は薄くて古い服を着て、厳しい喘息を我慢して、フランス語の辞典を読みながら、マルクス?レーニン主義についての色々なフランス語のハンドブックを勉強していた。彼は語彙と文の意味を繰り返して論考して、考え込んでいた時もあれば、興奮なので腕を振り上げていた時もあった。

彼は蔡和森で、出身地は湖南省湘郷双峰であった。フランスに留学して勤労しながら勉学していた時、彼は25歳であった。元々親父の店を継承して、“永豊チリソース”を経営し続けて、裕福ではないのに安定した生活を送るべきだったが、蔡和森は非常に難しい道を選んだ。

蔡和森

蔡和森

辛亥革命の時に、蔡和森は孫中山が国家と人民を救うために、あらゆる困難危険をなめ尽くして、終始変わらない革命精神に感心して、孫を自分の手本としていた。蔡は学校で初めておさげを切った人であった!それから、蔡和森は革命が唯一の出る道であるということを段々と理解し、理論学習の深まりと社会実践の累積に伴い、真理を追求する希望も切実になりつつあった。

漣水を離れた彼はもっと広い世界に投身していた。湖南高等師範学校で勉強し、新民学会を創立し、湖南のフランスに留学する勤務しながら勉学する団体を組織して、19191225日にフランスの帝国郵便汽船会社の“アンダライホ”と呼ばれた船に乗ってフランスへ勤務しながら勉学するまで、彼はこの苦しい道でしっかりして前向きにしていた。

1920年7月、新民学会の会員たちはフランスのモンタルジで一緒に写真を撮り、後列の右から二人目が蔡和森であった。

19207月、新民学会の会員たちはフランスのモンタルジで一緒に写真を撮り、後列の右から二人目が蔡和森であった。

勤務しながら勉学していた二年間で、蔡和森は粘り強い根気で飽くことなく勉強したり探索したりして、“極端なマルクス派”としての彼は“社会主義だけが中国を救い、世界を改善することができる”という信念を抱いて、“共産党を創立する”という主張を初めて唱えていた。彼は毛沢東への手紙に以下の内容を書いた:中国の革命を発展するならば、まずは党――共産党を創立しなければいけない。この党は無産階級の革命政党で、無産階級の“先鋒隊、作戦部隊”としなければいけない。蔡は初めて“中国共産党”という旗を挙げた。この党は全ての群衆運動の組織者とリーダーで、工場、農村、学校に根を下ろしなければならないと彼は明らかに指した。手紙を受け取った毛沢東も非常に興奮で、“蔡さんの見解は大変立派で、私は全て賛成です。”と回復した。空をつんざいた稲妻のような蔡和森は中国革命の理論家と先駆者として、異国にいて、祖国を念頭に置いており、中国の革命に明るい道を指し出した。

帰国後、蔡和森は党内で重要な役割を担っていた。中国共産党の第2次全国代表大会から第6次全国代表大会まで、中央委員に当選し、中国共産党の第56次全国代表大会で中央政治局委員に選ばれた。彼はマルクス主義の理論家から中国革命の先駆になり、中国社会問題の根源が帝国主義に起因したということを認識して、『先駆』第9号の版面で公に“帝国主義を打倒する”というスローガンを叫んでいた。蔡和森は革命戦線の中核になる力として、夜を日に継いで労作しており、しかし、このとき、災難がそっと訪れてきた。

1922年9月13日、中国共産党の機関紙である『向導』週刊が創刊され、蔡和森は総編集長であった。図は蔡和森が創刊号で発表した『本紙宣言』であった。

1922913日、中国共産党の機関紙である『向導』週刊が創刊され、蔡和森は総編集長であった。図は蔡和森が創刊号で発表した『本紙宣言』であった。

1931610日、香港の海員たちは重要な会議の予定を決めて、群衆の集会で、探偵、特務などが混入する可能性が高いので、中国共産党広東省委員会は蔡和森に会議を参加させなかった。しかし、蔡和森は“革命のために、必要があるところへ行くべきで、個人の安危だけを心配することは無理ですよ。”と言った。午前11時、多くの人が蔡を忠告してやめさせたのに、彼は会議を参加すると決まった。離れる前に、“午後一時前、必ず帰るよ。もし帰らないと、逮捕されるね。”と奥さんに言った。彼が自分の運命を不幸に予言して、以上の話は意外にも家族に残した最後の話であった。蔡は会場に来たとたんに、待っていた特務に逮捕された。牢獄で残酷な処罰を受けても、蔡はずっと屈服していなかった。国民党は彼からほしいものを得ると企んでいた。蔡は打たれて全身傷だらけで、青紫になった。この方法で蔡に屈服させるつもりだった。しかし、国民党はミスを犯した。彼らは思想が浅く、意志が弱い臆病ものではなく、長い試練を経て強い無産階級革命家に直面した。敵が非常に残酷なので、蔡和森は反動統治を覆うという決心を更に固めていた。牢獄の他の人は蔡和森が敵に野蛮に痛めつけられた様子を見て悲しんでいた。しかし、蔡は詩を書いて他人を励ました。敵は仕方がないので、釘で彼の四肢を壁に残酷に打ち、銃剣で彼の胸をボロボロに刺した。蔡和森は36歳で玉砕した。

烈士はとこしえに生きて、浩然の気は永遠に不滅である。自由平等を追求する道で、人民の幸福、民族の解放と国家の富強を求めるために、壮麗な共産主義事業のために、蔡和森は血と生命で自分が青年時代で書いた“忠誠を寸心に印し、浩然の気を天地間に充満する”という詩を実践した。彼は一生の革命行動で革命家の誓言をつづりあげて、殺される前の雄勁な革命気迫は多くの人を呼び覚ました。毛沢東同志は“和森同志は共産党員のすべきことを全て完成しました。”といった。鄧小平同志は“蔡和森同志は中国共産党の早期の優れたリーダーの一人で、中国革命に重大な貢献をしました。中国人民は彼を永遠に覚えています。”とも言った。

(図文出所:中国共産党の第2次全国代表大会開催地記念館)

 


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