上海市静安区の繁華街では、灰色がかった石庫門の建物が緑を背景に重厚で静かな佇まいを見せている。建物は無言だが、どの廊下にも、どの部屋にも波乱万丈な歴史の響きが宿っている。
ここは第2回党大会の開催地で、旧・輔徳里625号である。
1922年7月16日から23日にかけて、中国共産党第2回全国代表大会(以下、「第2回党大会」という)が開催された。この会議ではいくつかの初めての出来事があった。第1部の党章が誕生し、党の民主革命綱領が初めて提起され、党の統一戦線思想が初めて提起された……
第1回党大会の開催地が「樹徳里」であったが、第2回党大会の開催地が「輔徳里」。1文字だけ違っているこの2カ所は、第1回党大会と第2回党大会で党の成立を成し遂げた歴史を裏付けており、さらに味わい深さが残している。
輔徳里に足を踏み入れると、赤色歴史の雰囲気が、100年を駆け抜けた理想の光を物語るように押し寄せてきた。
質素で簡単
20世紀末、上海市は「東西方向の大動脈」である延安路の高架を建設したが、設計の際に特に重要な変更を加えた。第2回党大会の開催地を避けて通り、この百年前の石庫門建築を完全に保存した。
今、この開催地の鴨居にある煉瓦彫刻は完全に修復されており、「騰蛟起鳳」の4文字は依然としてはっきりしている。
百年前の革命家たちは、この細かいことに気づいていなかったのかもしれない。その時の輔徳里は、「目立たなかった」。だからこそ、成立したばかりの中国共産党はここで自分たちの第2回全国代表大会を開くことにした。
「輔徳里は当時、上海共同租界とフランス租界地の境界にあり、『境界線』辺りは行政管理と治安上の『真空地帯』が形成されていた。周囲には同じ石庫門の家屋が連なっており、番地625号も目立たなかった。また、路地裏の前後のドアは通行可能で、当時の厳しい環境下で突発的な事態に対応し、速やかに避難するのにも便利だった」と中国共産党第2回全国代表大会跡記念館党支部書記・副館長の尤瑋は述べた。
時を百年前に巻き戻すと、「目立たない」輔徳里は当時、多くの有志青年たちの集いの地となった。
当時中央局の宣伝主任だった李達と夫人の王会悟はここで住宅を借りて、住んでいた。映画『1921』では、李達が屋上で熱弁をふるって『インターナショナル』を歌った。王会悟は涙を流しながら聞いていた。彼女は強い眼差しで夫を見、夫と未来への自信に満ちている。
輔徳里は彼らの生活の場であるだけでなく、中央局の秘密な執務場所でもある。中央の重要な方針・政策、政治的主張、重要な指示は、すべてここから全国各地の共産党組織に発せられた。中央局の往来文書の処理と保管、機関事務、会務などの仕事は、李達にかかっていた。アパートの一階から二階に通じる階段の下に、李達は小型印刷機を置き、党の初の出版機構である人民出版社を創建した。当時、マルクス主義を宣伝する大量のパンフレットがここから上海労働運動の第一線に次々と送られた。
番地625号裏口の斜め向かいにある家は庶民の女子校で、陳独秀、李達らが創設したもの。党の経費が不足していたため、李達、王会悟夫婦は自分の給料と原稿料の一部を出して校舎を借り、その他の各種準備作業に手掛けた。
1922年2月、庶民女子校が正式に開校し、国語、数学、英語、物理、化学、経済学、教育学、社会学などのカリキュラムが設けられ、教師は全員深い教養を持つ有名人で、大多数は共産党員(陳独秀、劉少奇、陳望道、沈雁氷など)であった。ここから卒業した人として、王剣虹、丁玲、銭希鈞など、後にかなり知名度があった。
幼少期の中国共産党は模索の中で自らの事業を発展させていた。第2回党大会が開催された時、全国の党員は第1回党大会時期の50人余りから195人に増えた。第2回党大会の任務は、中国の実情に合った革命綱領を打ち出し、自らの行動指針とすることである。
第2回党大会には、陳独秀、張国燾、李達、楊明斎、羅章龍、王尽美、許白昊、蔡和森、譚平山、李震瀛、施存統など、中国各地からの12人が出席し、平均年齢が29歳。歴史上の原因で、今も身元が確認できていない代表者が1人いる。
彼らは風采も文才も盛りの年に出会った。全員が新しい教育を受け、フランス、日本、ソビエト連邦に留学したことのある人も多い。彼らの学識だけで、革命に身を投じなくても衣食に不自由なく過ごせたはずであった。
彼らは共通の理想のために輔徳里に集まった。「これらの意気盛んな若者たちは、早期にマルクス主義の影響を受け、それを中国革命の実際と初歩的に結びつけた。彼らは絶えず学習し、時代とともに前進し、果敢に突破している」と、中国共産党上海市委員会党学校の党建設教育・研究部の陳世瑞准教授は述べた。
1922年7月16日から23日にかけて、中国共産党第2回全国代表大会(以下、「第2回党大会」という)が開催された。王会悟は晩年の回想によると、当時、会場は質素で粗末で、正式に配置されていなかった。腰掛けをいくつか加えただけで、柳の枝で編んだ箱を二つ窓際に置いて、上に布を敷いて、机にした。「彼らは会議をし続けていて、階段を下りて食事をするときも、食卓で会務について話し合っていた」という。
第1回党大会が開かれた時のように、王会悟は同じく「会務王」として歴史を目の当たりにした。第2回党大会の代表らが会議を開いていた間、彼女は生まれたばかりの娘を抱いて外で見張りをしていた。
1958年、上海の関係部門は複雑な調査を経て、最終的に静安区老成都北路7弄30号(旧・南成都路輔徳里625号)が第2回党大会の開催地であることを確証した。また、李達、王会悟らの回想と関連文献の記録をもとに、そこを再び復元して配置した。王会悟は「第2回党大会の開催地に関する会議の説明」という手紙を返信したことがあるし、さらに、わざわざ人に頼んで「輔徳里625号」の平面スケッチを描いてもらった。整然とした図面上、本棚、ベッド、座席などが一つ一つ示されている。
中国共産党第2回全国代表大会跡記念館はそれらの情景を復元した。座敷の中央には、八仙卓(正方形のテーブル)が置かれていて、周りには八つの四角い腰掛けがあり、両側には肘掛け椅子と茶卓がある。2002年に記念館が一般公開されて以来、次々と見学者がこの部屋に足を運び、輔徳里での赤色歴史をたどっている。
党章が採択
蒸し暑くてじめじめした夏は眠かりやすいが、100年前、輔徳里625号に集まった12人は激情に沸き、自由で独立した新しい世界が、彼らの顔を明るくした。
当時の中国で最も際立っていた問題は、帝国主義勢力の操縦下で激化する軍閥の混戦であった。成立当初の中国共産党はすでに、時局がこのように激動している背景に、まず国と民に災いをもたらす各規模の軍閥と帝国主義を打倒し、また厳密な組織と厳格な規律をもった有力な党を建設しなければ、すべての美しい理想の実現は語れないことを認識していた。
混み合った石庫門で、出席した代表者が言葉を斟酌に重ねた。8日間、3回の全体会議で、条文ごとに起草・討議・修正され、最終的に採決されたのは、初めての『中国共産党章程』であった。
「第2回、第1回党大会は共に建党の任務を果たした。その象徴の一つが、初の党章の採択だ」と、上海市中国共産党史学会の忻平会長は言った。
第1部の党章は全部で、千字余りで、6章29条から構成される。党員、組織、会議、規律、経費、付則などを含む。条文では、党員の条件と入党手続き、党の組織原則と組織機構、党の規律と制度などについてそれぞれ具体的な規定をしている。
現行の党章と異なり、初の党章の内容は条文のみで、総綱はなかった。第2回党大会が採択した文書では、『共産党の組織章程に関する決議案』は、総綱のような機能を果たしていた。決議案は初めて党の無産階級先鋒隊の性質を明確にし、以下の通り、建党の過程で従わなければならない二つの原則を提出した。一つは「党のすべての運動は広範な大衆の中に深く入り込まなければならない」、もう一つは「党の内部には革命に適応する組織と訓練がなければならない」である。
『中国共産党歴史』には第2回党大会について、次のように書かれている。「大会で採択された『中国共産党章程』は、党成立後初の党章である。党員の条件、党の各級組織の建設、党の規律について具体的な規定をしている」。党史の専門家によると、初の党章は規律に対する規定が非常に厳格である。例えば、無断で4週間連続して党に奉仕しない、または3カ月間連続で党費を納めなかった場合、党から除名するものとする。また、党の章程と各執行決議案に反する発言や行動があった、無断で2度も大会に参加しなかった、党の機密を漏らした、などの場合は党員が除名されるものとする。また、経済規律の面では党の経費の管理を際立たせた。
「当初のような厳しい政治条件の下で、新生党組織が1人の党員にこれほど厳しく要求するのは、気迫があり、非常に容易ではなかった」と、忻平は言う。
1922年8月、第2回党大会が閉幕した直後、当時国民党党員だった朱徳は困難を乗り越えて、上海にある陳独秀の下宿を訪れ、中国共産党に入党したいとの考えを話した。朱徳の切々とした表情を見ながら、陳独秀は、以下のことを語った。国民党と違って、共産党はきわめて厳密な組織であり、共産党員は確固とした革命の意志を持ち、厳しい闘争の試練に耐えなければならない。しかもこのような試練は短期間でやり遂げられるものではない。
そう言われた朱徳はくじけることなく、陳独秀から贈られた革命理論の書物を極めて敬虔に、真剣にめくり、入党申請の道を続けた。その後、朱徳はヨーロッパに渡り、厳格な組織手続きを経て、ついに周恩来、張申府の紹介で入党に成功した。
当時まだ幼かった中国共産党は、もちろんより多くの優秀な青年の加入を熱望していたが、こうなったのは、規律が鉄のようで、信仰が磐のようであったからである!
1923年に開催された第3回党大会では、陳独秀は第二期中央執行委員会を代表して報告を行った。「第1回党大会ではまだ綱領もなく、規則さえなく、労働者階級による執権という党の要求は宙に浮いていたままだが、第2回党大会ではしっかりになり、規則もあり、中国の実際状況を見いだし、党の進むべき道を決定した」と指摘した。
党史の専門家で、大学中国共産党偉大建党精神研究センター立信サブセンター研究員の徐光寿によると、陳独秀は「しっかりになる」と言ったが、これは主に第2回党大会で初の党章が採択されたことを指す。党章の採択は中国共産党自身の建設を発足させただけでなく、党員の言動を指導し、党内生活を健全化させ、組織の発展を促進し、党の戦闘力を高めるために積極的な役割を発揮した。第2回党大会以後、党の指導の下で全国各地でストライキ闘争が激しくなり、労働者の政治的自覚が急速に高まり、組織化の度合いが著しく高まり、青年・女性運動も新しい様相を呈した。
今、中国共産党第2回全国代表大会跡記念館には、党章の寄せ書きの壁が特別に設置されており、壁には異なる年代、異なるバージョンの党章が展示されている。ある見学者は、「党章の一つ一つは、中国共産党が小から大へ、弱から強へと発展していく証しであり、中国共産党人の信仰に対するたゆまぬ追求を体現している」と感慨深げであった。
信仰の守護
第2回党大会の内容とその歴史的意義について、党の歴史学界は早くから比較的統一的な認識を持っていた。中国語の文献が何も残っておらず、党史学者が多くの手がかりを得て初めて開催時期を確定した第1回党大会と比べて、第2回党大会で採択された中国語文書の原本は完全に保存されており、歴史のありのままの姿が研究者の目の前に直観的に現われているのは、その一つの理由である。
例えば、「中国共産党章程」第29条には、「本規約は、第2回党大会(1922年7月16日‐23日)により議決される」という内容があり、大会の会期を日付まで明確に示している。
残されてきた第2回党大会での中国語文献『中国共産党第2回全国大会決議案』には、第2回党大会が採択した各決議文書が含まれており、最後の部分の内容は『中国共産党章程』である。
黄ばんだ決議案のパンフレットは今、中央公文書館に大切に保管されている。パンフレットには「張静泉(人亜)同志秘蔵」という印鑑が押されており、その背後には、一人の守護者の伝説的な物語がある。
彼の名は張人亜、字は静泉。1898年浙江省北崙霞浦鎮霞南村に生まれ、中国共産党初期の党員で、かつて上海金銀業労働者の大ストライキを指導した。「張人亜の革命的生涯の大部分は上海で過ごした。彼は革命に携わった時期が早く、広い分野に携わった。中国共産党が指導した初期の上海工業輸送、青年運動、党建設、秘密交通、出版発行などの革命事業に積極的な貢献をした」と、上海市委員会党史研究室研究一処の陳彩琴副処長は述べた。
地道で前向きな品格をもって、張人亜は普通の手工業労働者から次第に党の優秀な幹部に成長した。1924年、張人亜は自叙伝の中で、なぜ共産党に入党したのかを述べている。「私は中小ブルジョア的な手工業労働者だが、労働者階級に忠誠を尽くすには十分な経歴がある。自分が労働者階級の一員になろうとしている以上、当然、労働者階級の力を大きくし、労働者階級の行動を指導し、頭を健全にしたいと考えている。共産党は労働者階級の頭脳であることは、過去の事実ではわかるようになった。私が共産党に入ったのは、偶然のことではない」。
忠誠と信仰は、張人亜の革命生涯の中に溶け込んだ。1927年、「四・一二」反革命クーデターが発生し、中国革命情勢は急転直下した。危急の際、張人亜が真っ先に考えたのは党の文書とマルクス主義の書物の安否であった。この年の暮れ、久しぶりに故郷に帰った彼は、慌ただしく寧波霞浦にある家のドアに入り、文書と書物を父の張爵謙に手渡した後、また広大な革命事業に赴き続けた。
早期の中国共産党、多くの活動が秘密裏に行われた。張人亜の家族ですら彼の行方もわからなかった。張爵謙は家に残した息子の書類を守るために、「不肖の息子は外で亡くなった」という嘘話を作り、張人亜のために合葬「衣冠塚(死者の衣服など遺物を葬ってある墓)」を作って、そして油紙で書類を包んで空の棺に隠した。
新中国が成立するまで、張人亜はまだ家に帰らなかった。張爵謙は三男の張静茂に文書や書物を党組織に提出するよう託した。1920年9月に出版された『共産党宣言』初の中国語全訳本、1920年から1921年までの『共産党』月刊誌全刊号、第2回党大会文書……「彼は独自の抜け目と先見性をもって、中国共産党初期の一部の貴重な歴史文献を保存・伝承させ、永久的な伝奇物語を残した」と、陳彩琴は言う。
家族はずっと「行方不明」になった張人亜を探すことをあきらめなかった。2005年、家族が中華ソビエト共和国の一時中央政府機関紙『紅色中華』に、張人亜が1932年に病死したとの記載を見つけた。弔辞には、「人亜同志は革命活動に対して、努力を惜しまず、苦労をいとわず、共産党内では終始党の正しい路線を擁護し、すべての正しくない思想と断固として闘争した……」と記されている。
家族はほっとし、涙を流した。
第2回党大会の歴史と、中国共産党初期党員が党章を守る物語を描いたノンフィクション演劇『輔徳里』は、この物語を感動的に演じている。舞台では、張人亜が古いトランクを持ち、革命のために奔走していた。もう一つのシーンは、肉親たちのたゆまぬ探しと深い思いである。張人亜の姪である張望紅は2番目の叔父の行方を探し当て、そしてすでに何年も亡くなっている祖父に「叔父は革命のために命を捧げた」と告げるときに、観客席は静まり返り、多くの人が涙を流した。
上海静安区委員会宣伝部、静安区文化・観光局が製作した『輔徳里』は、全国で巡回公演を行い、多くの若者の心を動かした。「90後」(1990年代生まれ)の脚本家・呉氷さんによると、張人亜の話に「涙が止まらなかった」とし、偉大さとは具体的なこと、犠牲は重いこととわかった。さらに多くの若者に第2回党大会の歴史、初の党章の守護、重要な歴史上の人物の気持ちと責任感を知ってもらいたいと願っている。
『輔徳里』のテーマ曲の中で、呉氷さんは先輩への懐かしさとオマージュを歌詞に書いている。「花は崖をいっぱいに咲かせ、野の火は荒涼を焼き尽くした。少年は遠くへ向かい、古いトランクには理想が一杯詰まっていた……」
「騰蛟起鳳」
会議に出席した代表者の回想によれば、第2回党大会が閉幕の7月23日、陳独秀はすでに秘密会議であることを忘れ、そのまま席から立ち上がり、演説のように声を張り上げて大会で採択された文書を読み上げた……
百年後、そんな熱い想いが戯曲『輔徳里』にも注がれている。舞台上では、俳優が歌唱、演説、演技を通じて第2回党大会を披露し、青春の力に満ちた「二時間交響楽」のような物語がほぼ劇全体の「発火点」となった。一つのクライマックスとして、役者が力強い音楽に合わせて、「中国共産党万歳!」と一斉に歌い上げた。
この迫力のあるローガンは、『中国共産党第2回全国大会宣言』からのものだ。これは重大な歴史的意義を持つ文書で、党の最高綱領と最低綱領を制定し、当時の中国革命の性質、対象、原動力、策略、任務と目標を初歩的に明らかにし、中国革命の前途を明示した。締めくくりには、「中国共産党万歳」というスローガンが初めて公に打ち出された。
大会では、陳独秀、張国燾、蔡和森は起草委員会に選ばれ、『中国共産党第2回全国代表大会宣言』とその他の決議案の起草を担当させた。
宣言では、中国革命の対象は「資本帝国主義と軍閥官僚の封建勢力」であり、革命の性質は「民主主義革命」であり、さらに現在の歴史的条件の下で、党の奮闘目標は「内乱を取り除き、軍閥を打倒し、国内の平和を建設する」「国際帝国主義の抑圧を打倒し、中華民族の完全独立を達成する」「中国本部を真の民主共和国に統一する」ことであると提起した。これは事実上、現段階における党の反帝・反封建の民主革命綱領、すなわち党の最低綱領を制定したものである。同時に、党の目的は「無産階級を組織し、階級闘争の手段を用いて、労働者・農民政権の政治を確立し、私有財産制度を取り除き、漸次共産主義の社会を実現することである」と宣言は指摘している。これはまた、第1回党大会が制定した最高綱領を受け継いだ。
アヘン戦争から「五・四運動」に至るまで、中国の民主主義革命は途絶えることなく続けて、困難と困苦に満ちていたが、これまではどの政党も革命の対象と原動力を明確に明らかにし、それによって的を絞って革命の綱領を制定しなかった。中国共産党は創立してわずか一年で、徹底した反帝・反封建革命綱領を提出した。「これは、マルクス主義で武装した中国の労働者階級とその政党だけが、中国革命のために方向性を示し、中国革命を勝利に導くことができることを十分に示している」と、忻平は言う。
百年の時間を見送ってきた輔徳里は、生き生きとした教材のように、今の人に夢、熱血と奮闘をはっきりと見せている。第2回党大会開催地の鴨居に今なお光り輝く「騰蛟起鳳」4文字のように、中国共産党はここから「龍のように跳び上がり、鳳凰のように舞い始めた」。