上海毛沢東旧居陳列館が新たに公開 「初心の足跡-毛沢東は上海での生活」赤色研学路線初公表の取材原稿
原稿発送の期日:2021-03-12 訪問回数:

上海毛沢東旧居陳列館の「存史(史料保存)、資政(政治助言)、育人(人材育成)」という愛国主義宣伝・教育機能をさらに発揮させるために、上海毛沢東旧居陳列館は最近、展示陳列のレイアウトを再び調整し、展示陳列の機能と見学ルートを最適化・整備している。

赤色(革命ゆかりのある)物語を語る貴重な史料

茂名北路120弄7号(元慕爾鳴路甲秀里318号)に位置する上海毛沢東旧居は中庭、居間、前楼と下屋などを持つ石庫門様式の建物である。1924年、毛沢東は上海に来て、引き続き中共中央局(中国共産党第1期中央局)秘書を務め、陳独秀の中共中央の日常業務処理に協力したほか、国民党上海執行部の業務の指導にも携わり、国共合作(国民党と共産党との協力体制)の基盤を整えるには重要な貢献をした。同年の6月から12月にかけて、毛沢東と奥さんの楊開慧、子供二人(長男・毛岸英、次男・毛岸青)、義理のお母さんの向振熙と家族5人はここに住んでいた。甲秀里は毛沢東が上海で最も長く住んでいた所である。

偉大なるご家族が国に尽くし、自分を犠牲する革命的な気持ちをより全面的に語るために、陳列館は今回の展示陳列調整の前に、韶山毛沢東旧居と湖南板倉にある楊開慧旧居などの関連展示館を訪問し、たくさんの貴重な史料と証拠品を募集した。これらも今回の展示陳列調整の中で最も多く追加された内容となっている。9号棟1階にある実物展示エリアでは、多くの観客が足を止めて説明の文字を見つめていた。「彼は運がいい人だ。私に愛されるからだ。私は本当に彼を愛しているよ。……私の手紙を彼のもとに届けて、彼の手紙を私に持ってきてくれる人は、皆私の恩人だ。」この言葉は1927年、楊開慧が毛沢東と離れた後書いたもので、10ヶ月後楊開慧が犠牲になった。文字の中に、毛沢東への深い愛情と思いがにじみ出ている。残念ながら、楊開慧旧居でこの原稿を見つけた時、毛沢東はすでにこの世を去っていた。結局、愛妻からの厚い思いを受け取ることができなかった。この文字の下には、「一弟への手紙」という黄色がかった手稿もある。1929年、国民党が朱徳の奥さんを残虐に殺害し、首を吊ってさらしものにしたことを知った楊開慧は、死が迫っていると感じったため、従弟の楊開明に手紙を書き、万が一のときに、子供を託すことを綴った。残念ながら、この「遺言状のような手紙」は結局出されず、1982年になってようやく公開された。これらの貴重な文字から、観客は楊開慧の人生最後の3年間の内面に入り込み、革命者・妻・母親としての彼女の考えの変化を垣間見ることができる。

革命のために、毛沢東一家は前後6人が犠牲となったが、この「毛家六烈士」には長男の毛岸英も含まれる。実物展示エリアでは、毛岸英の犠牲地から寄せられた土やロシア政府が毛岸英に授与した第二次世界大戦反ファシズム勲章も見られた。これら貴重な実物はすべて劉思斉から寄贈したものである。

「中国建国後、毛沢東が初めて上海に訪れたのはいつだったか、みなさんご存知ですか。」ガイドの質問に多くの観客が回答できなかった。展示エリアにある2枚の瑞金賓館の写真は、その答えを明らかにしている。1953年12月27日、新中国成立後、毛沢東は初めて上海を訪れ、瑞金賓館に行き、陳毅らの報告を聞いた。関係者の回想によると、会議は午前5時ごろまで続き、主席が休憩しようとした時、主席の荷物がまだ専用列車に置かれていたことに気づいた。当時は通信が不便だったため、専用列車がどの駅に止まっていたのか分からず、一時的に連絡が取れなかった。毛主席は延安から北京まで、自分の簡易的な荷物で休んで寝ていて、宿泊所の掛け布団を使ったことはなかった。彼の掛け布団の両面が白い布でできていて、花柄入りの布団に変えたら、彼は認めてくれなかった。その後、主席は午後4時に瑞金賓館を出るまで休むことなく部屋でずっと書類を読んで、仕事をしていた。毛主席の生活が質素で、仕事に没頭している姿に皆が深い教育を受けた。

「真理を探る」展示エリアでは、ガイドが古い書物を指しながら観客に向かって語っている。「毛沢東が訪れ、ちょっと話したら去る。雲来から、1カ月余り経ち、博文女子学校を訪問し、数日前から体調不良になった。湖南の情が穏やかになったら、各県で文化書社を立ち上げるつもり。湖南人は本当に活動に熱心だ。」これは泰東図書局の支配人である趙南公の日記で、中共一大(中国共産党第一次全国代表大会)後の8月11日に、毛沢東が上海での日程が明記されている。同日、中国労働組合書記部は上海に設立され、まもなく北京、武漢、長沙、広州、済南に支部が設立され、毛沢東は湖南支部の主任を勤めた。静安区のもう一つの赤色会場である中国労働組合書記部跡地陳列館と対応している。

1919年から1920年まで、毛沢東は三回も上海を訪れ、フランスへ留学に行く湖南省出身の青年を見送ったが、ご本人は国内に残っていた。彼がなぜ留学しに行かなかったのかについては、今回ガイドが説明してくれた。毛沢東が1920年3月に友人の周世釗宛ての手紙によると、彼がしばらく出国しない理由について、「私が今の世の中に少しでも力を尽くすなら、もちろん中国を離れることはできない」と述べていた。1920年5月、毛沢東は「駆張運動(反張敬堯の運動)」を指導するため上海に来て、哈同路民厚南里に住んでいた。陳独秀と何度もマルクス主義を討論した後、毛沢東は最終的に自分がマルクス主義者になろうという初心を固めた!陳列館のショーケースの中には、1938年バージョンの赤色『西行漫記』が183ページに巡らせられていた。そこには「1920年の夏になって、理論的に、しかもある程度の行動が示されているように、私はすでにマルクス主義者になった。これから、私も自分がマルクス主義者だと思っている」とはっきりと書かれている。

文化・イノベーション展示による教育機能の開拓

今回展示館の出口では、多目的文化・イノベーション展示エリアが増設されていると取材で分かった。30平方メートルほどの部屋には、さまざまな機能が集結しておる。半分のエリアは観客の休憩エリアとなっており、美味しいコーヒーを楽しみながら、街沿いの風景を堪能したり、記念写真をプリントしたりしている。反対側では静安の歴史・人文をテーマにした一連の文化・イノベーション製品が集中的に展示されている。例えば、モバイルインターネットの要素を取り入れた静安文旅(文化旅行)パスポート、パケッジに四行倉庫の有名な弾丸穴のような模様が入った「孤軍牌」石鹸、中共二大の「明灯」をテーマとした文化・イノベーション製品、レーザー彫刻技術を利用して静安の10つの特色建築を融合させた「静安を読む」立体式彫刻付箋などがある。そのほか、石庫門の要素が含まれた甲秀里のノート、コースター、3Dモデル、「労働は幸せな生活を創造する」と書かれたホーローのマグカップ、毛沢東旧居内のたれ壁の花柄をデザイン要素にした絹のスカーフなどもある。その中で最も注目されたのは、デザインに工夫が凝らしている美しい龍鳳柄入りのチャイナボタンしおりだった。スタッフによると、龍鳳柄入りのチャイナドレスの手作り技術は国家級無形文化遺産に登録されており、その中でチャイナボタンは龍鳳技術の中で最も優れている。この黒檀の木製の「甲秀里」しおりは、職人が丹念に手作りしたもので、2020上海の特色あるお土産商品(銀ランキング)を受賞した。

優れた展示品を集め展示陳列ルートを最適化

上海毛沢東旧居陳列館は100年の歴史を持つ石庫門様式の古い建筑で、陳列館の建筑自体は貴重な歴史文物である。今回の展示陳列調整では、旧居の特色を十分に考慮し、見学ルートを最適化し、9号棟1階に実物展覧ホールを設置し、観客が何度も階段を上り下りしないようにした。7号棟2階にある特別多目的臨時ブースでは、特別展示と「シチュエーション党(中国共産党)の授業」などの活動に用いることができる。

路線を研究・勉強し初心の足跡を探る

陳列館で波乱の歳月を温めたほか、「初心の足跡-毛沢東は上海での生活」という赤色研学路線も12月26日に正式に発表された。この路線は中共上海市委党史研究室、中共上海市静安区委員会が主催し、中共錦江国際(集団)有限公司委員会、上海瑞金賓館が協力し、静安区文化観光局が実施したものである。

静安区の全国・市級の労働模範代表、各界の青年代表、上海大学の博士・修士代表、党員ガイド代表などで構成された研学先発団は、研学任務を携えて、正式に第1陣の赤色研学の旅を開始した。このカスタマイズされた研学任務は赤色研学の旅の各駅の異なる学習テーマにそれぞれ対応する。1920年の毛沢東旧居で初心を学び、信仰を固めること、錦江飯店小講堂で実務を学び、着実に仕事を貫くこと、上海瑞金賓館で作風を学び、素質な生活を提唱すること、上海毛沢東旧居陳列館で家風を学び、自分を厳しく律することを学ぶこと、中共三大後中央局機関歴史記念館で規則を学び、言動を正すことなどがある。

赤色研学バスに乗り、任務リストを手がかりに、学習者たちは各駅で注意深く耳を傾け、時々メモを書き、答えを探していた。静安区城発集団からの全国労働模範の卞忠紅氏は見学後、「天気が寒いにもかかわらず、私たちの心が熱くなっています。この特別な研学路線を通じて、100年前に毛主席が上海で歩んだ革命の道を再び歩むことができて、偉人の考えの変化を感じ取り、革命の先人たちの家族と祖国への思いを味わうことができます」と話した。また、上海は中国共産党の生誕地であり、マルクス主義伝播の肥沃な土地である。今回の研学を通じて、革命の先人が人の先に立ち、不屈的て、確固たる信念を深く感じただけでなく、自分が「静安人」であることを誇りに思ったと多くの静安党員が述べた。

同日、「主席について上海を見る」専門家インタビューも行われた。中共中央党史文献研究院研究七部副主任の劉栄剛氏、中共上海市委党校常務副校長の徐建剛氏、上海社会科学院研究員・上海文史館研究館員・中国史学会副会長の熊月之氏、上海日報都市と建筑歴史コラムニスト兼部長記者・上海市建筑学会歴史建筑保護専門委員会副秘書長の喬争月氏、静安区文化観光局調研員の張衆氏などが特別に招かれ、毛沢東が上海に訪れた時の時局・背景、ニュース・事件、行動軌跡、風土・人情などの各方面について、党史、上海発展史、建筑と文化などの各角度に着目して討論した。ネット中継の視聴者数が134977人に達した。

偉人の足跡に沿って初心を求め、赤色文化観光は静安で体験できる。ここ数年来、静安区は「マルクス主義の伝播地、革命指導者の足跡地、初期中共中央機関の集積地、初の党章の生誕地、大衆運動の発祥地」という赤色テーマを練り上げ、区域内の革命遺跡の比較、考証、研究を通じて、重要な革命遺跡100カ所余りを系統的に整理し、豊富な党史資源と多くの赤色題材を集めた。今年、広範な党員幹部・大衆の「四史」現場教育に対するニーズを満たすために、静安区はすでに「初心を堅持し、四史を学び、静安を旅する」をテーマとした5つの研学路線を成功裏に打ち出され、市民から良好な評判を得ており、赤色文化観光資源を活性化させ、観光市場の回復を推進してきた。今回の「初心の足跡-毛沢東は上海での生活」赤色研学路線は、市と区の赤色資源統合という強力な連携であり、社会経済の発展を後押しする革新的な試みでもある。今後、主催者側は偉人ゆかりの特色ある資源をさらに掘り起こし、多くの党員を指導して初心を受け継ぐようにし、使命を背負い、赤色文化で文化観光産業に潤いを持たせ、赤色文化観光の「静安見本」で共に党成立100周年を迎える。